起業家に求められるのが狂人的な勝ちへのこだわりなら、僕は愛の狂人になる。
僕の心の奥底には、膨大な怒りがある。間違いなく、これは熱くて赤い炎の塊、怒りだ。 神様が人間に対して愛を教えてくれたのは、その膨大な怒りを発散するための道具として使えるようにするためだとおもう。 膨大な怒りを、愛を通して表現できる人間は、贅沢であり、それこそ愛を享受している。 怒りを愛で爆発させることができたら、僕は何より幸せだ。
隣の見えない世界
僕の心の奥底には、膨大な怒りがある。間違いなく、これは熱くて赤い炎の塊、怒りだ。 神様が人間に対して愛を教えてくれたのは、その膨大な怒りを発散するための道具として使えるようにするためだとおもう。 膨大な怒りを、愛を通して表現できる人間は、贅沢であり、それこそ愛を享受している。 怒りを愛で爆発させることができたら、僕は何より幸せだ。
人は過ちを犯す動物だ。 正義に対しての約束を破り、他人の権利を侵し、自分を傷つける。 過ちを犯し、一旦は悔い改めても、再び過ちを犯す。その繰り返しが、僕らだ。 ここで僕の信仰するイスラームの教えに、神様が持つ人間へのスタンスを述べた面白い供述があるので共有します。(意訳になります) 民が過ちを犯さない完璧なものになるとしたら、神は「過ちは犯し、それでもって悔い改め、軸に戻ろうとする民」に置き換える。 とある。 僕は、これをすごく、深いと思うんですよんね。 まず、人間はそもそも過ちを犯すようにできている。 では、なぜそうなのか? 反省するため、悔い改めるためである。 ①この行為には、まず自分の過ちを認識することが求められますけど、それだけで勇気のあることで、価値があるんですよね。 取らなくてもいいその姿勢を、人間はあえて取り、自分と(この場合は、世と神様に対してもという広い意味ですが)向き合おうとしている。 これだけでも、すごい。 ②そして、「積極的に改める」という行為は相当なエネルギーを使う。 ③神様は、過ちを犯すことが人間であることをわかってくれていて、過ちを犯さない完璧人間になることが目的ではなく、何回も悔い改めるという行為こそが人間なんだよと言ってくれてるんですよね。 そこには、愛があると思っています。 そして僕らが取れる優しい姿勢も、垣間見えます。 僕らは過ちを犯す。過ちを犯すからこそ人間だと言っても過言ではない。 ただそれを認識し、改めるという行為もまた、人間だからこそできる。 そしてそれは、美しい。 自分の過ちを悔い改め、そして他人にもまたその人なりの改める過ちがあるだろう。 お互いを許しあえる世界、お互いを高めあえる世界、お互いを包める社会が、いつのまにか「勝ち負けの世界」になっている。 ビジネスの世界は、いかに相手を打ち負かすかを考える。 学校では、人生には「勝ちゲー」があると教えられる。 過ちの連鎖であるこの社会で、僕らはお互いを優しく包むこともできる思うんですよね。 愛ある競争で、愛あるクリエイティブを。
このプラットフォームをどういった発信に活用するべきか、日々迷います。というのも、書きたい事、書くべきこと、僕が所属する各コミュニティーに求められる文章があるため、混乱を招くのではないかと思うこともあります。ただ、その全てを「アリアン」という傘下で(様々な)作品として創っていき、その集合体がまた一つの作品になるのではないかと、楽観的ながら思っています。ですので、気ままに、何かしらの価値を提供できるような文章を書いていこうと思います。 勿論、その一つ一つの「作品」は別々の専門読者がいるというのを想像しながら創られていくため、その業界での”ルール”を守りながら、作法に則りながら創られていくことでしょう。全く別のコミュニティーから覗きにきている方からしたら、理のかなわない言葉がずらずらと並べられているようにしか見えないでしょうが、それもそれで、個人的に面白いと思っています。できるだけ、年齢分野に左右されず、普遍的な理解ができるよう綴りたいところではありますが、私の文章力だとどうしてもその難関なことができないことが多々あると思います。何卒、大目に見ていただきたいと共に、その一種の「エポケー状態」(意訳:何いってるのかよくわからん状態)を楽しんでいただきたく思います。 さて本題に入る前に「この文章」を書いてるアリアンはどういった人間なのか、改めて自己紹介のようなものをします。実はこの自己紹介こそが、本題への答えになるかと思います。付随して、この文章、この書き方、この堅苦しいようで、どこか己と事物を引き離し冷たい眼差しで混沌とした世界に物申していくような姿勢。これはどういった「ルール」に従っているのでしょうか? 答えは、CM後に。嘘です。文章の最後に。 (こういったスベるギャグをブッこむところ、普遍的なアリアンで、自分でも安心します????) 僕は、とにかく様々な「価値観」に触れ合ってきました。とは言うものの、この「価値観」という言葉は、非常に曖昧で、人によって意味も変わり、使い方も変わり、全ての意味を含み、何も含まない言葉であり、扱いづらさを感じます。 ここで、カール・ポパーの「枠組み」という概念を参照しようと思います。簡単に申し上げると、この枠組みというものは、その人が無意識的に持っている「思考」「感情」「行動」をデザインしてくる”ルールの集合体”です。つまり、世界を見るための色眼鏡という事ですね。 人はそれぞれ、色眼鏡を持っており、その眼鏡が持っている「色」を通して世界を見るから、その人が見る世界はその”色”に染まるのです。そしてその眼鏡を通して自分の中に入ってくる世界は、自分の思考、感情、行動をデザインしてくるのです。 ポパーによれば、どの文化も独立した文化として確立するために、内在的な「枠組み」があると言う。それがあるが故に、それぞれの文化はそれ自体で、一個の記号論的構造体のなり得ると言うことですね。簡単に言うと、どの文化(価値観)にも枠組み(色眼鏡)というのがあって、それがあるから、その文化は一つの塊として、機能するんですね。 ちょっと面白くなってきましたね。うん。 ここで、僕が好きな学者の一人である、井筒俊彦氏の文章を引用し「それっぽく」しますね。 …外界の対象を知覚するというような一見単純な行動でも、ただ外界からやって来る刺激にたいして我々の側の感覚器官が直接反応するのではない。その対象をどんなものとして認識するかは、その時その時に我々の意識の深層から働き出してくるコトバの意味構造の、外界を分節する力の介入によって決まるのであります。 井筒俊彦「人間存在の現代的状況と東洋哲学」(『意味の深み』より) 「それっぽく」しました。 とにかく、何かというと、人はそれぞれ、その人が意識的にしろ無意識的にしろ、その人が服従状態にある「価値観」ってあるよね、というお話です。この文章もまさに、少々極端で無理やりな言い方ではあるかもしれませんが「学問」という枠組みが持っているルールに僕は、服従しているのです。 僕はそんな「価値観」(枠組み=思考、感情、行動)ですが、数多く内在化されてしまっているのです。違う言い方すると、数多くの枠組みが重なり合って、一つ大きな変な色と形をした枠組みが存在する、と言ってもいいかもしれません。 これは決して僕がユニークということはないです。無意識に、人はそれぞれ、いくつかのコミュニティーに関わる訳ですから、複数の枠組みを持っており、それぞれの影響度合いは違えど、その枠組み同士の「衝突」も経験しています。全く別の価値観同士がぶつかり合うってことですね。(個人的に、画一化が進んだ日本はその現象が起きるのが他国に比べて少ない気はしますが。) 僕自身、その枠組み同士の衝突を幼い頃から、沢山経験してきました。小さなことから、大きいことまで。そして毎度、その衝突を緩和させるために、一旦形而上的にその事象を捉え、自分なりの「シンテーゼ」を出すという我ながら弁証法をやってきました。 辞書では、同義語とされる言葉があったとしても、内心「いや、ちょっと感覚違うよな」ってなって、それぞれの構造を体系的に理解させられる。これはまだ簡単なのです。なぜならその衝突した事象同士に優劣がないから。優劣をつける必要がないから。 厄介なのは、倫理的な是非を求めてくる衝突です。それが、Languageとしての意味的構造同士の衝突だけでなく、その背景にある「文化的枠組み」同士の衝突、もっと言えば、ビジネスという世界と学問という世界と芸術という世界のそれぞれが持つ「枠組み」が「言語的枠組み」と複雑に絡み合い、日々衝突を起こすのです。おまけにそういった衝突に敏感に反応するこの性格が、どうしてもその衝突に、意味を与えようとするのです。 僕はその衝突は美しいと思っています。そして自分は「衝突」の産物なのだなと、理解することに至り、ついでに、それを前向きに捉えることができました。恵まれていると思います、非常に。 この状態に苦しむ方達は数多くいるかと思いますが、僕なりに支えたいので、ぜひ気軽にご連絡ください。全てが解決されるほど、力量のある自分ではありませんが、少なくともお話を聞くことはできると思いますので、よかったら! 話を戻しますが、僕は– 複数の言語– 複数の思想(東洋、イスラーム、西洋など)– 複数の活動的視点(経済的活動、芸術、学問)と、様々な「枠組み」に触れる機会が、恵まれてることに幼い頃からありました。それはそれで、互いに否定し合うという厄介なものが数多くあります。ただ、それを乗り越えた先に見える世界観は、とても美しく、神様の言う「異なるの種族が創られたのはお互いを知るため」(クルアーン第49章13節)と言う言葉がじんじんと胸に響きます。美しいです。 それぞれの「枠組み」が見せてくる世界、つまり認識させようとくる事物があるわけですが、その違いが何なのだろうと思うわけですね。 認識論=「それ」とは何か?そこにある「それ」を知る方法は何か? 上記の疑問を抱かせてきた生い立ちに、幸か不幸か、今後もそれを追求するようしたてられてしまったのです。 僕なりにこの衝突を楽しみたいと思います。 少々、随筆っぽい文章になりましたね。今後も様々な文章体で、多岐にわたる分野について書いていきます。 何かリクエストがあれば、ぜひお申し付けください。 それでは! おまけ 上記の疑問を追求すればするほど、僕が信仰しているイスラームという「枠組み」に新たな一面を見つけることができ、楽しいです。勿論、限りある理解力のため、「自分の解釈」を疑うことは必須ですが、様々な師匠の支えを得ながら、正しい理解をできるよう、神様にも願いたいものです。
今回は、他の誰でもない、自分のために言葉を書く。 久しぶりに、銀座の本屋に赴いた。 本棚を見てると、ぎこちない感情が胸を走る。 大衆ウケのする本が空間を占領していた。大衆の購買行動が本棚をデザインしているのか、本棚が大衆の思考をデザインしているのか。大衆を恨むべきなのか、本屋を恨むべきなのか。その中で、あえてそこに置かれたかのような本がたまに見える。誰がおいたのだろう。強い遺志を感じる。 僕は毎度その本屋にいくと「今売れてる本」を見る。毎度「ん〜」と呟く。今の社会はこれで動いているのか。一目で語ってくれるのである。同時に、ちょっとした悲しさが垣間見えることがある。それは押し殺すようにしている。なぜそうしているのだろう。わからない。空気がそう「デザイン」されているのである。 都会は嫌いじゃない。騒がしい人混みの中で独りになり、音を遮断するのが好きだ。大勢に混じった自分を、また違う自分が見つめて、冷たさと暖かさを同時に感じる。その感覚が、僕の普段のご飯なのかもしれない。 僕は本棚を回った。足早になったり、またもや遅くなったり。歩いていくと、どんどん身の回りの音が、静かなノイズに変わっていく。表紙の文字が宙に浮かぶように見える。浮かぶ文字はその色で空間を染める。何も聞こえない。文字は空気の中で大きくなったり、小さくなったり、奥行きがついたり。その空間が圧縮される。歪んでた視界が、急に元に戻る。今まで遮断されてた音が破裂するかのように鼓膜に届く。 嘔吐が出るような感覚に襲われた。 息を切らしながら、指が言葉を並べた。書き殴った。見えてくる全ての感情を書き殴った。 しばらくして、落ち着いた。そして、並べた言葉を今度は、紡いだ。 どのように死ぬか。時代への彫刻が僕にとってどんなものなのか。それが、僕にとっての「描く」への渇望。