今回は、他の誰でもない、自分のために言葉を書く。
久しぶりに、銀座の本屋に赴いた。
本棚を見てると、ぎこちない感情が胸を走る。
大衆ウケのする本が空間を占領していた。大衆の購買行動が本棚をデザインしているのか、本棚が大衆の思考をデザインしているのか。大衆を恨むべきなのか、本屋を恨むべきなのか。その中で、あえてそこに置かれたかのような本がたまに見える。誰がおいたのだろう。強い遺志を感じる。
僕は毎度その本屋にいくと「今売れてる本」を見る。毎度「ん〜」と呟く。今の社会はこれで動いているのか。一目で語ってくれるのである。同時に、ちょっとした悲しさが垣間見えることがある。それは押し殺すようにしている。なぜそうしているのだろう。わからない。空気がそう「デザイン」されているのである。
都会は嫌いじゃない。騒がしい人混みの中で独りになり、音を遮断するのが好きだ。大勢に混じった自分を、また違う自分が見つめて、冷たさと暖かさを同時に感じる。その感覚が、僕の普段のご飯なのかもしれない。
僕は本棚を回った。足早になったり、またもや遅くなったり。歩いていくと、どんどん身の回りの音が、静かなノイズに変わっていく。表紙の文字が宙に浮かぶように見える。浮かぶ文字はその色で空間を染める。何も聞こえない。文字は空気の中で大きくなったり、小さくなったり、奥行きがついたり。その空間が圧縮される。歪んでた視界が、急に元に戻る。今まで遮断されてた音が破裂するかのように鼓膜に届く。
嘔吐が出るような感覚に襲われた。
息を切らしながら、指が言葉を並べた。書き殴った。見えてくる全ての感情を書き殴った。
しばらくして、落ち着いた。そして、並べた言葉を今度は、紡いだ。
どのように死ぬか。
時代への彫刻が僕にとってどんなものなのか。
それが、僕にとっての「描く」への渇望。