人は過ちを犯す動物だ。
正義に対しての約束を破り、他人の権利を侵し、自分を傷つける。
過ちを犯し、一旦は悔い改めても、再び過ちを犯す。
その繰り返しが、僕らだ。
ここで僕の信仰するイスラームの教えに、神様が持つ人間へのスタンスを述べた面白い供述があるので共有します。(意訳になります)
民が過ちを犯さない完璧なものになるとしたら、神は「過ちは犯し、それでもって悔い改め、軸に戻ろうとする民」に置き換える。
とある。
僕は、これをすごく、深いと思うんですよんね。
まず、人間はそもそも過ちを犯すようにできている。
では、なぜそうなのか?
反省するため、悔い改めるためである。
①この行為には、まず自分の過ちを認識することが求められますけど、それだけで勇気のあることで、価値があるんですよね。
取らなくてもいいその姿勢を、人間はあえて取り、自分と(この場合は、世と神様に対してもという広い意味ですが)向き合おうとしている。
これだけでも、すごい。
②そして、「積極的に改める」という行為は相当なエネルギーを使う。
③神様は、過ちを犯すことが人間であることをわかってくれていて、過ちを犯さない完璧人間になることが目的ではなく、何回も悔い改めるという行為こそが人間なんだよと言ってくれてるんですよね。
そこには、愛があると思っています。
そして僕らが取れる優しい姿勢も、垣間見えます。
僕らは過ちを犯す。
過ちを犯すからこそ人間だと言っても過言ではない。
ただそれを認識し、改めるという行為もまた、人間だからこそできる。
そしてそれは、美しい。
自分の過ちを悔い改め、そして他人にもまたその人なりの改める過ちがあるだろう。
お互いを許しあえる世界、お互いを高めあえる世界、お互いを包める社会が、いつのまにか「勝ち負けの世界」になっている。
ビジネスの世界は、いかに相手を打ち負かすかを考える。
学校では、人生には「勝ちゲー」があると教えられる。
過ちの連鎖であるこの社会で、
僕らはお互いを優しく包むこともできる思うんですよね。
愛ある競争で、愛あるクリエイティブを。