我々は物語に生きる。
幼いころから、物語を消費し、物語を想像し、物語を命を持って謳歌する。
物語に支配され、物語に縋るのである。
システムを創るものは、そこにかかわってくる人に、どんな物語を生きさせることができるか、そしてその物語の構成が善に向いていることを意識するのである。
私の言葉で言うなれば、神の創った物語の中で、善の物語を生きる登場人物になれているかどうか。
さらに言うと、我々は物語を創造するのではない。
神の創った物語の一部を間借りし、自身の価値を証明しようとするのである。
まさに、神の創られた物語の麓で、物語として、神を崇拝をするのである。
ここで、問うのは、あなたはどんな物語を描きたいか。そして、どんな物語を生きたいか。
あなたのその物語は、どんな記憶となって人々に受け継がれていくのか。
必ずしも、受け継がれなくてもいい。受け継がれない物語でもいいだろう。
ただ、「ふつうに生きているだけ」という言葉で片付けようとするも、物語性が消えることはない。それは確か。
私が生きたい物語、創りたい物語は、それは独りの、「葛藤と服従」の物語である。
影に潜む小さき美しさに気づき、扉を閉じた向こうにいる泣声に心を震わせ、自らの存在を神故に捧げることができることである。
智を敬い、その智を前にして地に額を付けることができ、神の印を知れる一つの知を知れるだけでもありがたいという気持ちになれること。むしろ、事業のすべてはその印の発掘と拡散であり、そこに集約すると言っても過言ではない。
地を流れる通貨には敏感であり、大きな富を生み出す価値を創造し、資源の採掘とそれが人々を潤わせる事業をつくれること。
矛盾を愛し、苦しいほどの矛盾に自ら飛び込むことで見える一つの芯を大切にすることである。
要するにこれは、神様を愛しながら、学問に打ち込むことができ、資本主義や富へ真向に批判的になり籠るのではなく社会に出て商人として資源を集め、それでもって家庭が魂にとっての涼しさと感じられるような生き方をしていること。それらを、「神を愛しながらできる」という神の物語を、ただ生きたいだけである。
この物語は、この世の美しさと儚さを教える、後世への教便とも言えよう。私にとって14世紀前の、彼らの生き様は、まさにそうだった。